熟成古酒の科学的研究者 酒類総研・磯谷先生に聞く!
まず酒類総合研究所とは
日本酒好きな方ならば、なんとなくその名前を聞いたことがあるはず!?「全国新酒鑑評会」と言うと、ピンとくる方も多いだろう。酒蔵が、6月あたりになると「金賞受賞」などのラベルを貼って売り出しているアレ。
そして明治44年(1911年)からその「全国新酒鑑評会」を日本酒造組合中央会とともに開催している団体こそが、通称「酒類総研(しゅるいそうけん)」。研究員の方々をはじめとする経験豊富な審査員が、出品された日本酒の出品審査を行う。
酒類総研の歴史は、明治37年(1904年)の日露戦争中に当時の大蔵省の醸造試験所としてスタート。現在の東広島市へは平成7年(1995年)に移転。酒類に関する唯一の国の研究機関(現在は独立行政法人)で、口伝や勘に頼っていた当時の酒造方法を改良発展させるための研究からはじまり、日本酒に限らず、酒類全般の醸造技術を科学的に研究し、世界をリードしている。明治42年(1909年)に「速醸酒母※」「山廃酒母」を開発し、大変だった酒造りを安定かつ、効率化の道へと導いたのも酒類総研。これまたツウなみなさんならご存じの「きょうかい酵母※」の分離や「泡なし酵母※」を発見したのも酒類総研。実は今や日本酒業界には無くてはならない、すごいところだ。
※速醸酒母とは:乳酸を直接添加して酒母を育成する方法。 乳酸を添加することで、酒母を酸性に保ち、雑菌の増殖を防ぐ。その結果、安定した環境で酵母を増やすことができ、効率的な酒造りが可能になる。 現在造られている日本酒の約90%が、速醸で造られた酒だといわれている。
※きょうかい酵母とは:現在、公益財団法人日本醸造協会が販売している酵母。もともと蔵ごとに異なる自然まかせの酵母(蔵付き酵母)での発酵から、優良な酵母をみつけて培養し、全国の酒蔵に提供しようという試みから生まれた。1号から始まり、中でも昭和21年(1946年)に分離されたきょうかい7号酵母は、洗練されつつ現代でもよく使われる酵母で、落ち着いた香りとバランスのとれた味わいで、万人ウケするため多くの蔵から採用されている。
※泡なし酵母とは:醪中で高泡を発生しない酵母。清酒の醪は発酵開始数日後から液面にかさ高く泡が生成され、泡の体積により醪の総容量が倍以上にも増加してしまうが、それを抑えることでタンクの容量を有効に使うことができる。また、泡を消す作業からも解放される。
熟成古酒の科学的研究者 酒類総研・磯谷先生に聞く
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- 磯谷 敦子(いそがい あつこ)さん
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プロフィール独立行政法人酒類総合研究所・醸造技術研究部門・副部門長
[略歴]
1996年 国税庁入庁1997年 広島国税局鑑定官室
2001年独立行政法人酒類総合研究所・分析評価研究室研究員
2006年 同・品質評価研究部門主任研究員
2009年 博士(農学)取得(広島大学)
2017年〜現職(取材時時点:2023.06.07)
あらためて、熟成古酒とは
色だけでも様々な違いが見てわかる熟成古酒(写真は東京新橋にある熟成古酒処にて)
いわゆる熟成古酒と謳われる日本酒の味わいは、カラメルや蜂蜜のような甘い香りを中心に、シナモン、クローブ、ナツメグのようなスパイシーな風味、そしてメイラード反応(褐変反応:糖分とアミノ酸が結合し、その名の通り茶褐色になる)にも起因する醤油や味噌などにも似た熟成香が感じられる。
参考までに、酒蔵等47社から構成される「長期熟成酒研究会」では、「上槽から満3年以上蔵元で熟成させた、糖類添加酒を除く清酒」を熟成古酒と定義している。古酒の研究はかなり前から始まっており、酒類総研の前身である醸造試験所においても1960年頃からの研究報文がネット検索から閲覧可能。飲用の史実としては、江戸時代から文献が残っており、なんと当時は古酒の方が高価で人気だったことも伺える。
江戸時代のチラシとも言える「江戸買物独案内」によると、文政年間では、清酒の上物は「九年酒」であり、値段は一升銀10匁とあります。当時の安いお酒と比べて2.2倍です(この頃の安い酒は一升300文。1文=0.015匁)。また、「大江戸番付事情」によると、江戸の酒番付では中央上段(特別扱いの枠)に「九年酒 大和屋又」とある。ここでは「9年間寝かせた清酒で、上等な新酒の3倍くらいの値段」と解説されている。最高級の清酒として位置付けられ、取引されていたことが伺える。 (熟成古酒研究会HPより引用/http://www.vintagesake.gr.jp/aboutvintagesake/history) |
原料や精米歩合、熟成温度などによってさまざまな味わいに変化する古酒だが、どんなお米を、何パーセント磨き、何度の温度帯で貯蔵すれば良いという明確な方程式はない。つまり、それだけ熟成後の味のバリエーションが豊かで、個性も強く、人の好みに大きく左右されるものだと言うことだ。
日本酒は醸造過程によっても、多くの味のバリエーションを生み、さらに熟成によってその奥行きを増すことが可能な素晴らしい酒類である。
これまでの研究結果からわかっていること
熟成古酒の研究は難しいと言われているが、醸造試験所時代の研究から、例えばさきほどのカラメルの香りは「ソトロン」という成分が関与していることがわかっている。またアミノ酸成分が多いほど熟成しやすく、そのためには、なるべくお米を削らない(低精米)ことや、醪の麹歩合を多めにする(全麹仕込み等)など、いくつかのテクニックがあるとのこと。磯谷先生が古酒の研究に携わることになったのは平成13年(2001年)の事。研究所の方針としては、おいしさの追求だけではなく、大事な日本酒を品質劣化させないための研究でもあった。
貯蔵しておけば、全ての日本酒がおいしくなるわけでは無いという事。貯蔵することで出てくるオフフレーバー(好ましく無い香り)に「たくあんのような香り(老香)」とも表現されるものがある。磯谷先生の研究結果から、この「たくあん香」の成分がわかっており(DMTS=ジメチルトリスルフィドという)、またそのDMTSに変化してしまう前駆体も判明しているため、熟成させる前の日本酒を検査することで、老香が出やすい酒質か否かを、ある程度予測することも可能。また、貯蔵温度は高いほど熟成速度が高まることもわかっており(10℃上昇するとメイラード反応は3〜5倍早くなる)、熟成酒の中には「加温熟成」と呼ばれる、常温よりも高い温度で貯蔵する銘柄もある。しかしながら、高温で貯蔵するほど「老香」も増えやすく、トレードオフの関係になる場合もあるとのこと。一方で、いわゆる吟醸香と呼ばれる香気成分は常温での熟成とともに減少する傾向もあり、そうならないために吟醸酒を氷温(マイナス5℃前後)で貯蔵する「氷温熟成」というタイプの熟成古酒も少しずつ市場に出てきた。
▼熟成に大きく関係する成分
▼市販熟成酒のソトロン濃度(カラメル様)
・熟成するほどソトロンは増える傾向にある。また常温熟成の方が相対的にソトロンが増える傾向にあり、貯蔵3-10年でも閾値を超え官能的にも感じる事ができる。
・酸素と温度がソトロン生成に大きく影響する(ポートワイン)
・好品質の古酒には7~20ppb含んでいた(吉沢1994)
(図は「醸協, 117, 181 (2022)」を参考に作成)
▼市販熟成酒の酢酸イソアミル濃度(吟醸香/バナナの香り)
・熟成するほど酢酸イソアミルは減る傾向。ただし、低温貯蔵の場合は減少しにくいため、比較的吟醸香を保ったまま熟成させることができる。
(図は「醸協, 117, 181 (2022)」を参考に作成)
▼貯蔵による成分の変化
・お酒の主要成分や熟成に関わる成分などを変数とした主成分分析の結果
・→(やじるし)が長いほど変化(熟成)が起きやすい酒質のもの
・「全麹」「貴醸酒」が変化(熟成)が大きい
(図は「醸協, 117, 181 (2022)」を参考に作成)
研究室には成分を同定するためのガスクロマトグラフなどが並ぶ
急速に広まる古酒の市場
2019年には、10年以上の古酒を保有する7つの老舗酒蔵が集まり「刻Sake協会」が発足された。2020年11月に東京・帝国ホテルで開かれた同協会の設立記者会見で発表したプレミアム秘蔵酒8本セットが、なんと202万円で完売。山本博氏(弁護士、日本労働弁護団名誉会長)、輿水精一氏(サントリースピリッツ名誉チーフブレンダー)、田崎真也氏(日本ソムリエ協会会長)の、洋酒業界の有力3氏が顧問を務める事でも話題に。
また一方、淡路島に本社を移転し現在事業を急拡大中のパソナグループのプロデュース会社・株式会社匠創生が手がける「古昔の美酒(いにしえのびしゅ)」は、熟成期間10年を超える古酒を厳選し、2020年6月に発売。淡路島にも究極の熟成古酒を集めた古酒レストラン「古酒の舎(こしゅのや)」も同年11月にオープンした。
もともとワインやカルバドスなど熟成酒に対する理解の深い海外では、早くも日本酒コンクールに「古酒」部門が創設され(例:フランスの日本酒コンクール「Kura Master(クラマスター)」など)、市場が急激に活発化している。
ワインやウイスキー、マディラやシェリーなど、高価格帯が存在する世界的な酒類には必ずと言っていいほど「熟成」という概念や市場が存在する。今回の取材から、日本酒にも確実にその付加価値が存在していることがわかった。これからの研究や展開がますます楽しみな市場である熟成古酒。時間をかける楽しみ、そして広がる香りのバラエティーは日本酒の価値をますます上げてくれることだろう。