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【豆知識】土倉酒屋(どそうさかや) ~造り酒屋は高利貸し~

室町時代、京の都では町の酒屋が隆盛をきわめました。多くは「土倉酒屋」(どそうさかや)と呼ばれ、金融業者(土倉)が酒屋を兼業したり、酒造業者が富を蓄えて土倉を兼ねるようになりました。中世京都における酒蔵の経済と文化への関わりについて中野恵利さんが解説します。

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鎌倉時代から室町時代、借上(かしあげ)という高利貸しが存在しました。借上は、いつしか物品を担保として、それに相当する金額を貸し付ける質屋のような金融業者となり、担保とした物品を保管するために土塗りの倉庫を建てたため、土倉(つちぐら・どくら)と呼ばれるようになります。
そしてこの時代、土倉(金融業)は酒屋(酒造業)に、酒屋は土倉に参入することが珍しくありませんでした。
今回は、中世京都における酒蔵の経済と文化への関わりについてお話しいたしましょう。

この方が解説します

杜氏屋主人・プロデューサー中野恵利さん
プロフィール
1995年、大阪・天神橋筋に日本酒バー「Janapese Refined Sake Bar 杜氏屋」を開店。日本酒評論家、セミナー講師、作詞家としてさまざまな分野で活躍。

● 建ちも建つ342軒!
室町時代の京都には、洛中洛外合わせて342軒(1425~1426調査・『酒屋名簿』に記載されていた数)の酒蔵があったそうです。現在、京都府全域の酒蔵の数が40軒ほどとなっていることを思えば、目を見張るばかりです。

そして、中世京都の酒屋(酒造業)のほとんどは土倉(貸金業)を兼ねた “土倉酒屋“ でした。
資本を必要とする貸金業、巨額の利益を生む酒造業、二足の草鞋を履いた中世の酒蔵は、“土倉酒屋“ と呼ばれ、公家・武家・商工業者・農民に大量の資本を貸すことによって、中世京都の経済発展において重要な役割を果たしていました。京都の住人にとっての金融機関であった土倉酒屋は、西は東洞院通から東は室町通まで、北は三条通から南は五条通までのエリアが密集地だったと考えられています。

京都市中京区には、倉が群立したことを今に伝える “御倉町(みくらちょう)” という町名があります。この区画は、平安時代には白河法皇が居住した院御所・西三条内裏が所在し、皇族や貴族が集住する地域でした。
現代では倉の代わりにビルが建ち並び、町の名だけが密やかに歴史を語っています。

● 高額納税者
13世紀、酒屋と呼ばれた “造り酒屋“ の出現により、それまで神事や祭事といった特別な日だけに飲まれていた酒が、行事のない日常でも飲まれるようになりました。酒屋が隆盛を極める時代の幕開けです。

瓢箪枕(ひょうたんまくら)にうわばみ、上戸にザルにドロンケン…… 何処の国でもどんな時代でもいる愛飲家のお陰で酒屋の利益は大きく、それゆえ、富の蓄積に勤勉な土倉たちは酒屋業に参入し、大きな利潤により富を得た酒屋もまた土倉に参入したのでした。

そして、この富に目を付けた室町幕府は、酒屋を財源として重要視し、それまで山門(延暦寺)の支配下にあった土倉酒屋を、年間6000貫文 (※およそ6億~9億円と考えられます) の納付と引き換えに寺社から解放し、保護するという名目のもと統制しました。実際に納められた金額はもっと高額だったという記述もあるので、土倉酒屋は現代で言うところの高額納税者ですね。

● 経済と文化のパトロン
土倉酒屋は、潤い、栄え、被支配階級の頂点に立ち、経済だけではなく、文化の発展にも影響力を発揮します。
この時代の町衆文化が、民衆の文化である小唄や風流踊りといった芸能と、能や狂言、お茶といった公家文化が融合している背景には、疑いようもなく土倉酒屋の経済力がありました。

しかし、彼らは高利貸しという恨みを買いやすい立場であったことを忘れてはいけません。それは、狂言『鬮罪人(くじざいにん)』に見て取れます。

・狂言『鬮罪人(くじざいにん)』
祇園祭の頭役(世話役・年寄)になった主人は、山鉾の趣向を相談するため、奉公人の太郎冠者に命じて町内の皆々を集めます。一堂に会した町人たちから様々な提案がなされるも、いちいち太郎冠者が口をはさみ、それは別の町から出ている、それは相応しくないなどと反対します。そこで太郎冠者の意見を聞くと、地獄で鬼が罪人を責めるのはどうかとのこと。主人は反対しますが、他の者たちが賛成するので山の趣向はこれに決まり、鬮引(くじび)きで役を決めることになりました。鬼役に太郎冠者、罪人役に主人が当たり、早速稽古をはじめたところ、鬼役の太郎冠者は日頃の鬱憤を晴らすかのように罪人役の主人を責め立て……。

得意気な太郎冠者と苦虫を嚙み潰したような主人の姿が滑稽に描かれた狂言『鬮罪人』は、土倉酒屋への当て付けとも捉えられています。
『橋弁慶』や『鯉山』などの題材が固定されたものだけではなく、毎年趣向を変える流動的なものもあり、人形ではなく人が扮装して乗ることもあったという山鉾の草創期ならではのストーリーですね。

中世、富裕層は “ 有徳人 ” と呼ばれました。これは、徳が備わっているという意味の仏教用語 “ 有徳 ” から、“ 徳 ” と利益を得る “ 得 ” が同音であることから、強欲の咎を逃れるために功徳を積もうと寺社への寄付を積極的に行ったことからだと伝えられます。
また、幕府・大名・寺社が領内の富裕層に課した臨時の税金は有徳銭と呼ばれました。
中世の京都、公家・武家・寺社といった権門と並ぶ存在感を放った土倉酒屋は、都市経済と町衆文化のパトロンだったんですね。

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