「誰もやってへんで」からの挑戦 [滝畑ダム]×[天野酒]熟成酒が河内長野の特産品になるまで
2025年5月21日、大阪府河内長野市・滝畑ダムで希少な「ダム熟成酒」の引き上げが行われた。湖底で半年眠った純米吟醸80本が水面へ姿を現す瞬間は圧巻。その舞台裏には、蔵元〈天野酒〉、行政、そして現場スタッフの情熱が交差する究極の官民一体。8年目を迎えたプロジェクトの現在地を追った。

大阪府の南東・南河内地域に位置する河内長野市は、市の約7割が山林という自然豊かな街。古くから歴史的に交通の要衝として栄え、様々な文化や歴史的な遺産が残されている。市内を流れる石川、石見川の存在もあり、水源も豊富。地理的特徴もあり、[滝畑ダム]は1981年竣工された。
そんな河内長野市に唯一存在する酒蔵が、享保3年(1718)創業の西條合資会社。江戸時代は「三木正宗」 大正・昭和を通しては「波之鶴」の銘柄で親しまれたが、昭和46年、天野山金剛寺の協力を得て古くから伝わる「天野酒」という銘柄を復活。今日では知る人ぞ知る地酒の一つに数えられるようになった。
いわば河内長野が誇る“資産”同士がタッグを組んだのが、2016年より実施している「ダム熟成酒」だ。
静かな湖底の水面から
2025年5月21日朝。滝畑ダム管理事務所前に集まったのは、河内長野市職員、府のダム管理者、西條陽三社長、報道陣、そして筆者とSake World担当者の十数名。引き上げ作業は報道関係者のみに限定で公開。安全を考慮して、ヘルメットとライフジャケット着用での実施となった。
着用後、普段一般人が立ち入り禁止のエリアへ足を踏み入れる。
事務所裏の急斜面からボート乗り場に向かう。鋼製レールとワイヤーで組んだ簡易インクラインが設けられており、ボートと台車が一体で湖面へ滑り降りる仕掛けだ。
ダム職員がボートを降ろした後、複数に分けて“乗組員”を選定。順番に湖面まで切り立った階段を降りていく。体感はほとんど「崖」である。足元に注意しながら降りていく。
揺れる浮き桟橋を伝い、小型ボートに乗り込むまでの数分間は、金属の軋む音が鼓動の高鳴りを際立たせた。
小さなボートで、一行はダム保守用に設けられた「浮島」へと移る。
取材日は5月下旬とはいえ、初夏を感じさせる気候だった。そこにライフジャケットとヘルメットを着用すると、汗が滲んでくる。
浮島からは通常見ることがないだろう、ダムの本体部分が一望できる。これだけでも貴重な体験と言って差し支えない。
一同が浮島へ“上陸”したあとは、いよいよ引き揚げ作業に入る。真下、水温8~10℃の湖底で、「ダム熟成酒」となる四合瓶80本は一年の半分を過ごしてきた。
西條社長主導で、ケースにつながるロープを手繰り寄せる。
緑がかった水面から浮上したのは、緑色のプラスチック酒ケース。西條社長は満面の笑みで語る。
「水は空気より熱伝導率が高く、四方八方から均一に冷やしてくれる。香味がレイヤー状に重なっていくんです」

河内長野市シンボルキャラクター「モックル」くんとともに
サイクルとしては、毎年12月に酒を沈め、翌5月に引き上げる形を取っているとのこと。
初回は湖底に沈めるための梱包方法がわからず、手探りだったため、梱包材の間に大量の空気層ができてしまい、お酒が沈まないトラブルなどもあったそうだ。
「そんなん誰もやってへんで」
引き揚げ作業が終わった後、西條社長と河内長野市担当者に話を聞いた。
事の発端は2012年当時、滝畑ダムの中谷分室長が、「酒熟成」を思いついたことが始まりだ。
中谷分室長はまず、柏原市のワイナリーに提案してみたものの、「河内長野のダムで柏原のワインは筋がちゃうやろ」と断られる。そこで白羽の矢がたったのが、地元の酒蔵・西條合資会社。
ちなみに、西條社長は、以前より滝畑ダムのリムトンネル※で、自社ブランド「僧房酒」の熟成を考えていた。
※岩盤の亀裂や断層からの水の漏れなど、ダムの安定性を脅かす障害物から、安全性を確保するために建設されるトンネルのこと。
そこへ当時の中谷分室長から、思いがけない言葉が返ってきた。
西條社長「『どうせやったら水の中へ沈めたら? そんなんまだ誰もやってへんで』って中谷さんが言い出さはった。そんなこと全く思いつかなかった。ビックリしましたわ」
こうして湖底熟成案が進行することとなった。
しかし、滝畑ダムは飲用・灌漑用ダムゆえ許認可は難航。しかし、中谷分室長が河川法など必要な書類を一手にまとめ上げ、2年間の試験熟成へ漕ぎ着けた。
獅子奮迅の仕事ぶりはまさにスーパー公務員。さらに「公共インフラを使うなら地元に還元を」ということで、ダム熟成酒が河内長野市のふるさと納税の返礼品とすることも決まった。
記念すべき初回となった2016年。「NHKと共同通信が来はってね、『全国初の湖底熟成酒』って大々的に報道してくれはりました。」と、西條社長は感動を語る。ヘリコプターで上空からも撮影されたそうだ。
120本限定の返礼品は「瞬殺」(西條社長談)。翌年からはリピーターが主力を占める人気企画へと成長したという。
「今年もちゃんと見とるで」
引き上げ作業を終えた西條社長はふっと口元を和ませる。
西條社長「面白いもので、毎年必ず何かしらハプニングが起こるんですよ。それも亡くなられた中谷さんの『今年もこっからちゃんと見とるで』いう合図みたいなもんやと思うんです」
それを聞いた関係者からは、どっと笑い声が起きる。中谷分室長の心意気が、今も皆の胸に生きている様を見た。
西條合資会社が、[天野酒]を最初に「ダム熟成酒」としたのは2016年だが、実は当時は国内初の試みであった。
パイオニアには困難はつきものではあるが、実際に数々の障壁にぶつかってもこのプロジェクトをやめない理由は、メンバーひとりひとりの胸の内に、湖底より深く根を張った当時の想いにある。
静寂と深緑の水が育む一本一本に、その思いと物語が込められていると思うと、胸が温かくなる。
筆者も、早速ふるさと納税として滝畑ダムの湖底で半年眠った「天野酒 滝畑ダム湖底熟成酒」を入手して唎酒を試みた。
スペックは精米歩合60%の純米吟醸無濾過生原酒。淡いレモングリーンの外観が特徴だ。
香りは、プリンスメロンや青リンゴの涼やかさの中に、上新粉とマシュマロを思わせるやわらかな米の甘い香りが重なり、次第にシナモンとクローブのほのかなスパイスが顔を出して奥行きをつくる。
口当たりはシルクのように滑らかで、蒸し米や羽二重餅の穏やかな甘味を芯に、白桃や熟したいちじくのジューシーさが広がる。中盤にはモッツァレラやギリシャヨーグルトのような乳酸のコクが加わり、湖底熟成がもたらす丸みを実感。
余韻には檜・杉・クロモジのウッディーなニュアンスとフレッシュヘーゼルナッツの香ばしさ、さらに控えめながら旨味を支えるしめじのだし感が静かに残り、ほのかな蜂蜜のタッチが全体を包み込む。
甘味、酸味、旨味の調和が見事!これが湖底熟成の力なのか、と、ただただ感動。
8年目の現在地
引き揚げ作業に立ち会い、そして話を聞く中で西條社長、河内長野市担当、滝畑ダム職員それぞれが、息もぴったりで和気藹々な様子が伺えた。
「天野酒 滝畑ダム湖底熟成酒」は、公共インフラ×酒蔵の異色コラボから生まれたストーリー型日本酒だ。半年の水中熟成がもたらす重層的な香味は、地域経済と観光に新たな循環を生んでいる。
ちなみに、西條社長が当初構想したリムトンネル熟成についても、西條合資会社が製造する「僧房酒」で実施している。安土桃山時代、かの豊臣秀吉が愛した酒を復刻したものだ。
滝畑ダムのリムトンネルは平均気温が約12℃で、天然セラーという形で熟成する形を取っている。

リムトンネル入り口
8回目のリリースとなったダム熟成酒は、例年通り河内長野市のふるさと納税限定で頒布され、寄付者には「限定ダムカード」が合わせて配布された。
さらに本年は、西條合資会社直営の酒蔵レストラン「天空」1万円分の食事券が同封される返礼品も別途用意。売れ行きは好調だ。。

西條合資会社が運営する酒蔵レストラン「天空」(写真・河内長野市提供)
滝畑ダム熟成酒は、河内長野ブランドの象徴となった。
パイオニアとしての8年間の歩みは、新たな市場創出と地域ブランディングの両軸から可能性を示した。湖底から引き上げた1本は、水と時間と人の知恵が織り成す物語が、舌の上でほどけるのを感じることができた。
このプロジェクトの更なる熟成を待ちたい。
河内長野市ふるさと納税ウェブサイト
https://www.city.kawachinagano.lg.jp/soshiki/74/82491.html
西條合資会社ウェブサイト
https://www.amanosake.com
滝畑ダムウェブサイト https://www.pref.osaka.lg.jp/o120170/minamikawachinm/m_index/k_takihatadam.html
ライター:山口吾往子(あゆこ)
酒ジャーナリスト。全国通訳案内士、国際唎酒師、日本酒学講師、WSET Sake Educator資格保持。2019年から大阪心斎橋でWSET Sake講座を英語で担当。日英で日本酒記事を執筆している。2023年WSET Spirits Level 3取得、スピリッツ関係執筆も。