キーマンに聞く

日本酒を世界で説明できる「文化」に WSET Sake Specialist・菊谷なつきさんに聞く教育で変えるSAKEの未来

イギリス・ロンドンに本部を置く世界最大の酒類教育機関「WSET(Wine and Spirits Education Trust)」。醸造酒・蒸留酒についての講座が世界70カ国以上で開かれ、年間受験者は10万人、総資格者は150万人を超える。同機関では「日本酒」についても講座が存在するが、このプログラムを考案したのが菊谷なつきさんだ。WSETと同じくロンドンを拠点にしてきた菊谷さんだが、このほど日本に移すことになった。Sake Worldでは"帰還”から間もないタイミングでインタビューを敢行した。

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秋田の造り酒屋に生まれ、2009年から2025年夏までの17年間をイギリス・ロンドンで過ごした菊谷さん。

ロンドンの銘店ZUMA/ROKAで日本酒ソムリエとして経験を積み、先述のWSETにおいて、自身が中心となって日本酒講座を立ち上げた。2014年より始まった同講座は、教育を通じて「日本酒を薦める力」を育てることをコンセプトに、現在世界40か国で開講されている。
一連の功績が認められ、翌2015年には文化としての日本酒を世界へと普及させる集い「酒サムライ」に叙任された。

海外よりSAKEの振興につとめる第一人者といえる菊谷さんが、いま改めて“母国”へと拠点を“戻す”。そんな彼女に、これまでの活動、WSET講座誕生の舞台裏、“外”から見た日本酒の課題、そしてこれからの展望について、同じくWSET日本酒クラスで講師をつとめる山口吾往子がインタビューする。

この方に話を聞きました

WSET(Wine and Sprit International Trust) Sake Specialist WSET Sake 講座統括責任者/酒サムライ 菊谷なつきさん
プロフィール
1982年千葉生まれ。米国ワシントン州立エバーグリーン大学卒業後、東京のはせがわ酒店へ。2009年に渡英し、ロンドンのフュージョン系和食レストランZUMA/ROKAにてサケソムリエとしての勤務を経てWSETへ。同機関で日本酒講座立ち上げと講師育成を行う。2011年より世界最大級のワイン品評会IWC(Iniernational Wine Challenge)SAKE部門の上級審査員。2015年日本酒造青年協議会「酒サムライ」叙任。

家業への想いと旅立ち

山口:自己紹介をお願いします。

菊谷:2009年からロンドンに住んでいましたが、数週間前※に日本に拠点を移し、17年ぶりに帰ってきました。
※本インタビューは2025年8月に実施
渡英のきっかけは、ロンドンの高級和食フュージョン系レストランZUMA/ROKAで日本酒ソムリエとして働くためです。
現場での販売やお客様との対話を通じて多くの気づきと壁に直面し、それを形にしたいと考えた結果が、今のWSET日本酒講座につながりました。

現在はWSETのSake Specialistとして、日本酒講座の全体統括を務めています。個人としては、英国ベースの日本酒コンサルティング事業も立ち上げ、現地レストランのトレーニングや酒蔵の英国進出支援を続けてきました。国税庁の輸出推進コンソーシアムの海外専門家として各国でセミナーも行い、2015年には酒サムライに叙任しました。IWC(International Wine Challenge)SAKE部門ではパネルジャッジとして審査に関わっています。

今後は日本をベースに、アジア圏での活動を広げたいと考えています。家族のことで言うと、母方の実家が秋田の造り酒屋の家系で、祖父が「高清水(秋田酒類製造株式会社)」の役員を務めていたこともあり、日本酒は幼い頃から身近にありました。

山口: 酒蔵にいらしたということですが、「女性だから継げない」という空気はありましたか。

菊谷:当時はありました。家業に関わる提案も重ねましたが、当時は双方のタイミングが合わず、まずは海外で自分の役割を確立することを選びました。いまも日本とのつながりは大切にしており、将来的には前向きな関わりができればとも思っています。

ロンドンで学んだ「教育」の力

山口: 大学はアメリカ、卒業後はコンサル会社勤務を経て、はせがわ酒店へ。

菊谷: はい、まずは現場を知りたくて。その後「ZUMA」に飛び込みました。

山口: ZUMAとの出会いはスカウトなんですか?

菊谷: いえ、自分からです(笑)。「酒 ロンドン」で検索したら、ZUMAの酒ソムリエ募集が出て履歴書を送りました。
当時はビザも取りやすく、SSIの唎酒師を取得して面接に行き、すぐ採用が決まりました。

山口: 慣れ親しんだアメリカではなく、あえてヨーロッパ(イギリス)を選んだ理由は?

菊谷: アメリカは既に日本酒輸出の主力市場でした。
一方ヨーロッパは「ワインの国」という土壌があり、伸びしろが大きいと感じました。ロンドンは文化・経済のハブで、まだEU離脱前という追い風もありました。

山口: ただ、2009年当時のロンドンは日本酒に厳しい環境でしたよね。

菊谷: 高級店以外に日本酒は置かれることは少なく、品数も品質も十分ではありませんでしたね。輸送・保管の問題もありました。
さらに「日本酒=蒸留酒」「ショットで飲む酒」という誤解や、ネガティブな広告イメージが根強くあって、店でテイスティングを勧めても断られるのが普通。まさにマイナスからのスタートでした。

山口:そこからどう状況を変えていったのですか。

菊谷: ZUMAは300~400席の大箱で、ソムリエだけでは到底回りません。ですので、スタッフが自信をもって日本酒を勧められるよう、毎週日本酒に関するトレーニングを実施しました。日本酒の蔵元の来店時には銘柄について話してもらい、造り手の顔が見える体験を重ねました。

すると、スタッフの[日本酒を売ること]についての気持ちが、「不安」から「楽しい」に変わっていきました。
教育の力によって知識と同時に、熱が伝わると店全体の空気が変わる。この実感が、後の私の教育設計の原点になりました。

ZUMAのスタッフと共に

WSET日本酒講座誕生と理念

山口:仕組みを一店舗からロンドンの街単位に広げたいと思われた?

菊谷:はい、それが私の根本思想でした。
その頃に、WSETのアントニー・モス(WSETマスター・オブ・ワイン。当時はWSET新規プログラム部門長)と出会いました。ちょうど2011年、IWC SAKE部門が日本で開催された折、コーポ・サチの平出淑恵さんのご紹介で、アントニーと本格的に意見交換する機会を得ました。そこで日本酒の輸出が伸びる予感を共有できたんです。
ただ、当時のWSET内には専門家がいない。そこで私が「やります!」と手を挙げ、[WSET日本酒講座立ち上げプロジェクト]が動き出しました。2013年にロンドン、米国、ドバイでパイロット版を実施し、2014年に正式始動しました。

WSET日本酒講座立ち上げ時  左:日本在住日本人初のMW、大橋健一MW、中央:菊谷なつきさん、右:アントニー・モスMW

山口:さらっとおっしゃいますが(笑)、テキスト作りは相当な難題です。原料の稲の栽培、米粒の構造、醸造学の知識、醸造現場の実際を全て体系化する――。これはとんでもない分量の作業だったと思います。

菊谷:本当に大変でした(笑)。
アントニーとの二人三脚でしたが、ベースになったのは私がZUMA/ROKA時代にまとめていた「学習ノート」です。
現場では「なぜこの香りがするの?」「米の違いは?」といった質問が絶えず、答えられるように勉強を続けました。在籍していた3~4年の休暇はすべて日本の蔵回りに充て、年2回の帰国で累計50蔵ほどを訪問。そこで得た知見を整理し、テキストに落とし込みました。
特に重視したのは「品質の伝え方」です。アメリカ滞在時に品質管理の不備を目にすることがあり、オフフレーバーの説明や「良い日本酒とは何か」を評価できる軸を明確にしたいと考えました。

山口: WSETの加点法的な品質評価は、日本酒界の“常識”と異なります。

菊谷: そこをあえて導入しました。
日本でも、酒類総合研究所が老ね香などの欠陥となる香りの有無をチェックするような評価はありますが、基本は「減点法」。
私たちは「どこが優れているか」「どんな個性を持つか」を、描写する対象として日本酒を扱いたかったんです。

山口: 立ち上げ時の内部での不一致や逆風は?

菊谷: アントニーとの不一致はほとんどありませんでした。
難しかったのは、WSETが「数値化できないもの」や「明確な事実以外」を教科書に載せない方針で、神話や郷土性の詳細は削られ、米品種の固有名詞も当初は5種に限定されたことです。
一方で、英国発の教育機関だからこそ、「特別純米」の解釈の“曖昧さ”など、踏み込んだ説明も書けました。

現場に行くと、「MW(マスター・オブ・ワイン)」という国際的に権威がある有資格者が前面に立つことが求められる場面や、役割の見え方に誤解が生じる場面もありました。そうした中でも、私たちは「男女や役割の違いはなく、あくまでも共同開発」と言う原則を大事にしてきたんです。

山口:「男女の役割の見え方に関する誤解」には私も同じような経験があります。残念ながら、女性が仕事をしていく中では「あるある」ですね。

菊谷:ただ私は質問で押していくタイプで(笑)。

熱意が伝わって打ち解けることが多く、そこに関してはあまり気にせず進めました。現場がそういうことに慣れていないから条件反射的にそうなるだけ、という感じもしましたね。
何よりこの講座は、「社会に必要だ」と確信していたから、私個人の看板でやるより、組織(WSET)の枠組みで世界に届くことが重要でした。WSETがやろうとしているなら、形にするのが自分の役目だと。

資格の使い道

山口:WSET日本酒講座は、テイスティングでWSETの「系統的テイスティング・アプローチ(SAT)」を日本酒向けに実装しました。感覚的表現ではなく、甘味・酸味・旨味・テクスチャー・余韻を「観察→記述→品質評価」という軸で積み上げる。これが「日本酒を薦める力」の共通言語になるものですが、この評価軸はワインから来たものですよね。

WSETでは、独自の系統的テイスティングアプローチ(SAT)を導入。

菊谷:ワインは品種と産地に収れんしやすい一方、日本酒は精米・酵母・酒母・発酵温度・上槽後の調整・火入れなど、技術要素が多層で、どの工程が味と香りに効いているかの言語化が難しい。
そこでまず、「ginjo」「non-ginjo」の大枠で入口をつくり、レベル1→2→3と段階的に肉付けしました。レベル3では、酵母選択や酵素、吟醸香生成のメカニズムまで踏み込みます。
制度やスタイルが更新され続ける領域でもあるので、枠組みは提供しつつ私たち自身も進化し続ける必要があります。

山口:完成後の広がりはいかがですか。

菊谷:WSET自体が「飲料界のTOEIC」として世界的に認知されていることもあり、sakeコースは立ち上げ後わずか5年で世界20か国・約2,000人に拡大。現在は年間3,000人ペースで、開講実績は世界40か国、累計では2万人近くが学んでいます。エデュケーター(講師)は認定200人超、アクティブに教える講師は100~150人ほど。レベル3を教えられるのは約120人です。

エデュケーターの国籍もさまざまだが、Sakeへの愛は共通だ

山口:多国籍なエデュケーターの中で、カルチャーギャップは感じますか。

菊谷:味覚のベースが国によって全然違うというところはありますが、どちらかというと、世界標準から見て、日本で教えるときに逆にギャップを感じることが多いんです。
日本の受講者はとても真面目ですが、あまり発言されない。間違えるのが怖いのかもしれませんね。香港や韓国などアジア圏も同じ傾向があります。
ヨーロッパではむしろその逆で、みんな自由に喋りすぎる(笑)。いかに議論をまとめるか、発言をコントロールするかが課題です。

山口:それ、すごく分かります。日本の授業だと、「私はこう思う」と言える場づくりが本当に難しい。

菊谷:本当にそうですね。
でもやっぱり、教育の本質は「知識を詰め込むこと」ではなく、「なぜそうなのか」を考え、話し合うことだと思うんです。
ワインでも日本酒でも、グラスの中にあるものを理解し、解釈する力――クリティカル・シンキング――が求められます。だから、学びの場における「対話」はすごく大事です。

山口: WSET資格の「使い道」は日本でまだ伝わりにくい面があります。

菊谷:WSETは「世界基準の飲料資格」なので、日本酒だけでなく、ワイン、スピリッツ、そして今ではビールも含めた包括的な教育体系の中に日本酒講座がある。だから「日本酒単体の資格」というよりも、「国際的なアルコール飲料の専門家ネットワークの中で日本酒を学ぶ」という位置づけなんです。
プロにとっては履歴書として世界で通用する価値があり、愛好家にとっても「世界共通の言語で日本酒を語れる」面白さがあります。実務では、ソムリエがレベル3を取得することで日本酒メニューの拡充やプログラム立ち上げ、輸入・流通での担当化などキャリアに直結する例が多いです。

要は「体系的に理解できる=設計し説明できる」力が評価されるのです。特に輸出・インバウンドの現場で働く人には、強力な武器になると思いますね。

山口:確かに。日本酒業界の現場では、「味わいを言葉で説明する」ということがまだ十分とはいえません。「水が良い」「山田錦をこれだけ磨いた」といった情報で終わってしまうこともあります。

菊谷:だからこそ、WSETではテイスティングコメントを系統的に書く訓練を重視します。
詩的に魅力的な表現ではなく、まずは分析を積み上げる。「甘み/酸味/旨味/テクスチャー/フィニッシュ」を客観的に記述し、これにより味わいから醸造を逆算して説明でき、販売現場での説得力が増します。
日本では「欠点がない=良い」とされがちですが、世界基準では個性の把握が鍵。蔵名や米品種に依存せず、酒そのものの表現力に向き合います。

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山口:日本酒の国内市場は右肩下がりです。日本酒業界は今後どう動くべきか、それに対してWSETはどう関わり得るのか、見解を聞かせてください。

菊谷:私が強く感じるのは海外市場の可能性です。
ただ「海外」という国はありません。どの地域の誰に、どんなシーンで、どう楽しんでもらうかの具体化が必要です。
WSETはそのための共通言語と橋渡しを提供できます。併せて、各蔵は自分たちの「蔵の真髄」の言語化が不可欠。家業の歴史、地域での役割、自社の酒が映える風景まで可視化し、第三者も巻き込みながら伝えるべきです。
この部分において、WSETは味わいを世界の枠組みで語る訓練と、価値提案を海外文脈へ翻訳する視点で貢献できます。

山口:「当たり障りのない言葉」から一歩進めるために。

菊谷:たとえば、家が長く守ってきた価値や、地域で担ってきた機能を具体的に語る。それが「その蔵の真髄」です。
WSETは、味わいを世界共通の枠組みで語る訓練や、価値提案を海外の文脈に翻訳する視点を提供できます。蔵・酒販・外食・輸出入のそれぞれが、自分たちの物語と品質を買い手の言語に変換できるようになる――日本酒を「説明できる文化」にする。そこに関わっていきたいです。

山口:これまでのお話にも通じますが、やはり「担い手の多様性」が確保されていないことが、日本酒業界の硬直につながっている気がします。

菊谷:そうですね。やはりマインドセットの変化は必要だと思います。
国内市場では従来のやり方で続けられたかもしれませんが、海外に挑戦するというのは「新参者になる」ということです。だからこそ、柔軟なチーム、柔軟な思考が求められる。実際、海外では女性のリーダーシップが目立ちますし、それを参考にして、若い女性や多様な背景を持つ人たちを登用していくべきだと思います。

山口:では、そうした流れの中で、ご自身の今後10年のビジョンは?

菊谷:社会は大きく変化し、飲食・アルコール業界も厳しさを増すでしょう。
逆風下で「勝つブランド」をどう生むか――その力になれる教育と仕組みを提供したい。もう一つは、蔵・ソムリエ・小売・飲食の現場まで、誰もが誇りを持てる業界にすること。WSETの講座がその通過点になれば本望です。
日本に戻った今は、日本酒との距離をもう一度縮め、「日本を拠点に世界と日本酒をつなぐ架け橋」として活動していきます。

山口:最後にお伺いしたいのですが、なつきさんにとって、日本酒とは何でしょうか。

菊谷:「家族」そのものです。日本酒がなければ、ここまで自分のルーツを意識しなかったと思います。
日本には何百年と続く企業が数多くあり、世代ごとにバトンを渡しながら一つの志を守り続けている。そこには使命感や誇りがあり、それこそが日本人らしさ、日本文化の核だと思います。日本酒にはそのエッセンスが詰まっていて、「日本そのもの」を発信できる。私にとって日本酒は家族であり、同時に地域や文化をつなぐでもあります。

山口:少し個人的な質問になりますが、お嬢さんには、将来日本酒の道に進んでほしいと思われますか?

菊谷:自由に選んでほしいですね。彼女の人生ですから。
でも、「お母さんの仕事ってかっこいいな」と思ってくれたら嬉しいです。日本酒を知ることは、日本を世界につなぐこと。それを次の世代へ手渡せたらと思っています。

山口:きっとそう思っておられます。働くお母さんの姿や、秋田で代々受け継がれてきた家業の歴史を通じて、何かを感じ取っておられるはずです。本日は貴重なお話をありがとうございました。

山口吾往子プロフィール
1995年京都大学法学部卒。2010年2月英語通訳案内士合格。日本酒好きが高じて、唎酒師と国際唎酒師、FBO認定日本酒学講師資格を取得。The Sake Educational Councilの認定資格、Certified Advanced Sake Professional (ASP)取得。2017年より日本語・英語双方のメディアで記事を執筆、日本酒の内外での動きについて伝える。また、2019年5月よりWSET sake Educatorとして大阪心斎橋にてWSET日本酒講座を行っている。

⚫️WSET(Wine & Spirit Education Trust)
https://www.wsetglobal.com/jp/japanese-qualifications

⚫️日本国内でWSET講座が受けられる認定校
キャプラン・ワイン・アカデミー
TERAKOYA IMADEYA ~WSET SAKE Class~
アカデミー・デュ・ヴァン青山校 WSET Sake講座

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