辰馬本家酒造会長・辰馬健仁氏に聞く [白鹿]の魅力と日本酒のこれから
兵庫県灘は全国トップクラスの生産量を誇る日本酒の銘醸地だ。全国的にも有名な大手メーカーが軒を連ねる中、「灘の銘酒」として古くから不動の地位を確立してきた白鹿。「酒はつくるものではなく、育てるもの」という信念を基に、酒造業だけではなく教育事業や博物館の運営など多角的な展開を行っている。

兵庫県神戸市と西宮市からなる酒どころ「灘五郷」。全国トップの生産量を誇る、言わずと知れた日本酒の銘醸地だ。
灘の酒で使用される「宮水」は、西宮市の海岸1km程度の場所から採水される国内では希少な硬水。日本酒の製造に適したミネラル分を豊富に含む。六甲山から吹き降ろす寒風、水流を利用した精米を活用した酒造り、さらには江戸までの海運に優れた環境を活かして発展し、現在も国内外にその名を轟かせる有名酒蔵が軒を並べている。
そんな灘の地で300年以上酒造りを続ける辰馬本家酒造は、「白鹿」銘柄として全国的に有名。日本酒好きはもちろん、そうでない人であっても「HAKUSHIKA」という名前は一度は見聞きしたことがあるだろう。
江戸幕府四代将軍・徳川家綱の時代、1662年(寛文2年)に創業した辰馬本家酒造は、酒樽造りから酒造業、そして海運業、金融業と幅広く事業を展開してきた。こうした姿勢は今にも続いており、現在では酒造業と並行して「酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)」といった文化施設や保育園・幼稚園・中高一貫校などの教育機関、他にも不動産やスポーツ施設といった事業を、[白鹿グループ]として展開している。
本稿では、辰馬本家酒造会長の辰馬健仁氏に対し、これまでの取り組みから今後の業界展望、さらに先述の酒ミュージアムを通じての地元西宮への関わりなどを取材した。
この方に話を聞きました

- 辰馬本家酒造株式会社 取締役会長 辰馬健仁氏
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プロフィール1971年5月に辰馬本家酒造15代当主辰馬章夫氏の次男として生まれる。1994年に株式会社三和銀行(現、三菱UFJ銀行)に入行後、1999年に家業である辰馬本家酒造株式会社に入社。2006年に同社の代表取締役社長、2020年に取締役会長に就任。日本一の酒処である灘より、日本酒文化の継承とともに教育・文化事業に注力する。
INDEX
食事がより美味しく感じられるお酒造りをコンセプトに
―辰馬本家酒造の創業について教えてください。
辰馬会長「もともとは酒樽の製造業からスタートしたと聞いております。その後、酒造りに専念し、事業を拡大させていったのではと思われます。
灘の発展より100年余り前の時代に遡りますが、当時は大阪の伊丹・池田が酒造りの主流でした。しかし、時代の流れとともにメインマーケットが江戸に移り、そこへお酒を運搬するために利便性の高い灘の地へ酒造業者が集まってきました。初めは色々な物資との混載でお酒を運んでいたようですが、江戸における灘酒の需要が増すに従い、『樽廻船』と呼ばれる日本酒専用の運搬船も登場したんですよ」
―海運以外で灘の優れた点を挙げるとすると、どういった点になりますでしょうか。
「兵庫県内では、三木市や加東市で【特A地区】と呼ばれる優れた山田錦が栽培されるエリアがあります。
山田錦の登場は今から100年程度前の時代ですが、それ以前からも稲作は盛んに行われてきました。米農家は春に田植えをして、秋に稲刈りするため、冬場の仕事が必要になる。そういった稲作の裏のシーズンに山を超えて海側に来て、酒造りを行うというルーティンが出来上がってきたんです。
また、六甲山から流れる急流を利用した水車精米技術の向上、『宮水』と呼ばれる硬水の仕込み水が切れのある酒質を生むなどといった利点を灘の地域は持っています」
―精米環境、水源という点で優れていたのですね。
「現在、灘で酒造りが行われている一帯はもともと町ではありませんでした。田んぼや畑だった土地に酒蔵が進出し、現在のような姿になっています。酒蔵が出来たことで、周辺に町が生まれたという順序なんです」
―辰馬本家酒造が造るお酒のコンセプトを教えてください。
「『食事の邪魔をすることなく、料理がより美味しく感じられるお酒』をコンセプトにしています。一時期、より大吟醸酒の香りを強めるという話が出ていたのですが、その際も最終的に出来上がったお酒は従来の『白鹿』らしいものが生まれました。これは、白鹿の味わいが酒造りの中に完全に根付いていることの現れと言えるかもしれません」
―「男酒」と呼ばれる灘の日本酒の中でも、白鹿は比較的柔らかいイメージを持っています。
「父から聞いた話では、ラベルに記載されている白鹿のロゴが華奢で、遠くから見ると分からない、目立たないという意見が少なくなかったようです。うちはこのロゴの華奢さに応じた、旨味はしっかりとしつつもマイルドな酒質になっているんです。
また、過去にイタリアでプロモーションを実施した時、もち米四段で仕込んだ本醸造に対して『こんなクリーミーなSAKEがあるのか!』と高評価をいただきました。海外では香りが高いものが受けるというイメージがありますが、実際の好みは十人十色。落ち着いた酒質を好む人もたくさんいらっしゃると実感しています」
次男として生まれ、銀行員から酒造業界へ
―酒造業を継いだ経緯を教えてください。
「1994年に大学を卒業した後、旧三和銀行(現、三菱UFJ銀行)へ入行し5年間勤務しました。実は私は次男で、てっきり兄が家業を継ぐものだと思っていました。
ところが、1998年に兄が継がないと意思表示をしました。私は弟が二人いるのですが、どちらも当時はまだ学生。父からすると次男である私が必然的に継ぎ手としての候補になる。何日か悩んだ末、家業を継ぐことを決め、入社しました」
―金融業から酒造業へ移って感じたことはありましたか?
「1999年春に入社し、秋から営業に出ることになりましたが、営業会議中の資料の単位が『石数』であることには驚きました。それまでいた銀行では『円』や『ドル』を見てきたので。
数年後、取締役に就任するのですが、そこで配られる決算書の単位は『円』でした。こうした円と石の使い分けは独特に感じました。当然、給料や賞与は円なので、円に統一しようと活動しはじめたのですが、なかなか浸透させるのが難しく。当時、『それなら給料も日本酒で支払うぞ』と言っていた記憶はすごく残っていますね(笑)」
―辰馬会長は日頃からお酒は飲まれるのですか?
「私はあまりお酒に強い方ではありません。しかし、先ほど申し上げた通り、白鹿の酒は食中酒としての美味しさがあり飲み飽きしません。それに私が言うのもなんですが、弊社の社員は全員白鹿のお酒が好きなんです。これは当たり前のようで意外とそうでもないことです」
―その理由は何だと考えますか?
「自画自賛的なところもありますが、単純に美味しいんです。入社した1999年の夏に行われた社内の飲み会に参加したのですが、暑い中全員が一杯目から熱燗を飲んでいました。燗ができない酒は駄目だということで、お燗酒しか運ばれてこない。その時はこの先が少し不安になりましたが、2年が経ったくらいには、私も仲間入りをしていました(笑)夏の燗酒、美味しいですよ」
時代に寄り添いながら、ブランドを未来へ
―現在の日本酒業界に対する考えをお聞かせください。
「近年、新しい取り組みを進める若い造り手が日本酒業界の話題の中にあります。中でも、どぶろくやクラフトサケといったジャンルへの支持者も多いですが、それらを入口に入ってきた飲み手が、我々が造っているようなレギュラー商品まで辿り着いてくれるかどうかはまだ不安な部分があります。
さらに、クラシックなタイプの日本酒が数多ある中で、『白鹿』を選んでもらうためには、少しでも光るものがないといけません。今や灘、伏見に限らず全国各地に大手酒蔵が存在し、それぞれが違う角度で日本酒を捉えて表現しています。その中でも白鹿の色を出し、若い飲み手が『将来はあそこのお酒を美味しく飲みたい』と憧れになる存在であるための努力は必要だと思います。
『努力』といえば、品質向上や味の改良なども重要ですが、私はすでに白鹿という銘柄の香味は完成していると考えています。
そのため、白鹿がどういった想いで造られているのか、どのように飲めば楽しめるのかといった面を常に発信し続けることを重要視しています。こういった内容を、たくさんの日本酒ファンの引き出しに入れといてもらうことが大事だと思います」
―国外需要に対してはどうお考えでしょうか?
「社内の前提では『国内はダウン、海外はアップ』と今後想定していますが、私個人としてはそうではないと考えています。
確かに年々海外の方が来日しており、和食への注目度もあがっている。一方で、伝統的酒造りのユネスコ無形文化遺産登録なども追い風となり、国内での注目度はまだまだ高いと思うんです。
日本が好きで観光に来る方に対し、日本文化の一角に日本酒がいると理解してもらいたい。そのためには酒蔵単体としての活動はもちろん、灘五郷のエリア全体でも需要を捉えないといけないはずです」
―国内もまだまだ伸ばせる余地はありそうですね。
「単純な国内アルコール需要だけに目を向けると、日本酒の需要はおおよそ5%程度に留まりますが、では残りの95%は何のアルコールを飲んでいるのか。つまり、『日本酒が選択肢に上がっていないのでは?』という仮説が立てられるはず。
それなら、95%の層に対して白鹿をアプローチすることで、国内シェアを上げる可能性も十分考えられると思うんです。国境を超えるマーケットも大事ですが、日本でも白鹿を支持してくれる人を増やす活動も大事。そこが手薄になっていると感じます」
グループ事業として教育機関も運営
―白鹿グループとして、教育事業にも注力しているとお聞きしました。
「現在、『学校法人千歳学園 松秀幼稚園』と『社会福祉法人清松学園 かえで保育園』、『学校法人辰馬育英会 甲陽学院中学校・高等学校』という3つの教育事業を展開しています。甲陽学院中学校・高等学校が最も古い事業であり、私の曽祖父である13代辰馬吉左衛門が1920年(大正9年)に同校の創立者から引き継いだことに端を発します。
松秀幼稚園は1971年(昭和46年)、かえで保育園は2011年(平成23年)に開園しました。かえで保育園については、西宮市の待機児童問題を解決することを目的にスタートしています」

▲かえで保育園の外観
―グループならではの教育方針があるのでしょうか?
「松秀幼稚園については、食育の一貫として味覚に関する教育を行っています。自分たちで作った料理を、自分たちで食べるといった内容を大切にしています。米についてもみんなで栽培し、稲刈り、脱穀なども行うんです。
灘五郷全体としても、教育事業に携わっている酒蔵は多くありますが、他府県と比較しても多いと思います。当時の蔵元、社長たちが後世の教育に投資していったんでしょう。私の曽祖父の本や伝え聞く話では、『国力を上げるためには人』という言葉もあるくらいです」
―酒造業と教育事業で訴求方法に違いはありますか?
「教育事業についてはどういう学校なのか、どういった考えなのかをしっかりと発信することが重要だと思います。この考えは酒造にも通じるものです。『白鹿はどんな酒なのか』『どんな酒を造っているのか』を発信し、共感していただくことでこそ振り向いてもらえると思います」

▲蔵元直営のショップ&レストランとなる「白鹿クラシックス」
―「発信」について、どういった手段で行っているのでしょうか?
「酒造業に関しては、かつてはいい酒を作っていれば自然に売れる時代でした。さらにテレビ広告の力も強かったので、日本酒を飲むことが一つのステータスでした。しかし、時代の流れとともに飲まない人も増えてきました。
こうした状況に対して現在、辰馬本家酒造の事業に関する講演を通して発信活動を行っています。今年の5月にも西宮市の市制施行100周年に合わせて講演する機会をいただいています。現在は会長というポジションですが、こうした活動は社長在任中からコツコツ行っています」
「酒ミュージアム」の記念館と酒蔵館
インタビュー終了後は、辰馬本家酒造が設立した「酒ミュージアム」こと、公益財団法人白鹿記念酒造博物館を訪問した。
日本で唯一である「日本酒」と「さくら」の博物館である酒ミュージアムは、同社が創業320年を迎えた1982年(昭和57年)に、生活文化遺産である酒造りの歴史を後世へ残すことを目的に設立された。
記念館では季節に応じた展覧会を開催しており、桜の保護・育成に尽力した故笹部新太郎氏が収集した「笹部さくらコレクション(西宮市より寄託)」などの資料が展示されている。

▲記念館内観
記念館から道を一本挟んだ場所に位置する酒蔵館は、1869年(明治2年)の酒蔵を利用した建物が活用されている。
1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災を乗り越えた酒蔵を利用した展示物は迫力満点。
蔵の入口は真南に向いており非常に日当たりが良くなっている。現役で使用されていた当時、洗った酒造道具を乾かす場所としても活用されていたそうだ。
写真左手には灘の銘酒を支える「宮水」を汲み上げるための「はねつるべ」も展示されている。
蔵を博物館として改装する際に発掘された釜場の遺構。昭和30年代まで現役で使用された。
館内には古くから使用されてきた酒造道具の数々が並ぶ。
一部の展示は実際に手に触れることも可能であり、当時の酒造りの様子がより鮮明にイメージできる。
阪神・淡路大震災では、灘の酒蔵が大きな被害を受けた。本ミュージアムでは被害を受けた当時の道具を一部残し、そのままの状態で保存している。大きな木桶が半壊し、酒造道具が散乱している展示から当時の状況がリアルに伝わってくる。
300年以上ものあいだ、灘の地で白鹿を造り続けてきた歴史の息づかいを感じられる資料館だ。
さらに、昭和4〜5年に建築されたかつての製品工場「白鹿館」に取り付けられていた「辰(マルタツ)」と記された旧ロゴや、かつて西宮のランドマークとして彩ったネオン看板を支えたアーチ型の鉄骨の一部も、同館に展示されている。
「育て合う」ためのツールとしての日本酒
―辰馬会長にとって日本酒とは?
「白鹿グループが掲げる企業理念は『育てる』です。私はこれを『育て合う』と解釈しています。そして、日本酒は我々と社会、お客様を育て合うためのツールとしてあるのかなと思っています。
育て合うという理念については酒ミュージアムなら展示物を通して、教育機関なら各学校を通して、日本酒だったら白鹿というお酒そのものになります。
こうしたお互いを育て合う環境を実現し続けられる1つの接点として、日本酒は大切な存在です。当然、飲んでいて美味しく、幸せな時間でもありますよね」
酒造りにとどまらず、教育・博物館を通じて地域や社会に根を張る辰馬本家酒造。その姿は、日本酒が単なる「嗜好品」にとどまらず「文化」として在り続ける意義を教えてくれる。「育て合う」を理念に発信を続ける辰馬会長の想い、そして白鹿の伝統と味わいはこれからも多くの人の心に響いていくはずだ。
ライター:新井勇貴
滋賀県出身・京都市在住/酒匠・SAKE DIPLOMA・SAKE・ワイン検定講師・ワインエキスパート
お酒好きが高じて大学卒業後は京都市内の酒屋へ就職。その後、食品メーカー営業を経てフリーライターに転身しました。専門ジャンルは伝統料理と酒。記事を通して日本酒の魅力を広められるように精進してまいります。