「居場所」をくれた恩返しをしたい 異色の日本酒ライター関友美さんインタビュー
日本酒ライターとして国内外を飛び回り、取材活動や講演会を行っている関友美さん。“普通のOL”だった彼女は、ふとした日常から日本酒に触れ、ライターや酒蔵の蔵人を経て“日本酒のなんでも屋”といえる立場までに。SNS発信でも注目を集める彼女のこれまでの変遷をインタビュー。
日本酒ライターとして、全国各地を飛び回って取材活動をしている関友美さんは、過去に兵庫県にある「山陽盃酒造」の蔵人として約5年半勤めていた経験を持ち、さまざまな媒体やSNSでの情報発信はもちろん、講演会や商品開発まで手掛けてしまう“日本酒のなんでも屋”だ。
“男性社会”のイメージが強い日本酒業界で確かな存在感を発揮している関さんだが、もともとは業界とは無縁の“普通のOL”だったという。そこから、現在の立ち位置にたどり着くまで、どんな変遷があったのだろうか。ご本人に話を伺ってきた。
自炊で気づいた日本酒の魅力

関さんが日本酒に“目覚めた”のは、地元の北海道から上京して、一人暮らしを始めたことがきっかけだったという。
関さん
「自炊をするとき、なるべく出費を抑えながら、おいしいものを作るなら、出汁をしっかり取るのが大切だと思って。そういう料理に合わせるのは、やっぱり日本酒しかないなと。ぜんぜんドラマチックなエピソードじゃないですよね(笑)。
でも、それまで選択肢の1つでしかなかった日本酒が、私にとって特別な存在になっていく原点でした」
飲む機会が増えたことで、自然と日本酒に対する興味が湧いてきたという関さん。原料となる米の種類や酒蔵ごとの特性など、いろいろなことを知りたくなって、酒場にも通うようになった。
関さん
「店主の方からいろいろ教えていただいたり、居合わせたほかのお客さんにおすすめの銘柄を聞いたりして。日本酒の勉強にもなるし、すごく楽しい時間でもありました。
ただ、若い女性が1人で飲んでいると、年上の男性から勝手にお酒をおごられたり、延々と関係のない自慢話をされたりすることもあって。1人の大人として対等に見てもらえていないように感じて、すごく悔しかったですね。
だからこそ、『誰よりも日本酒について詳しくなってやろう!』と、ますます気合が入りました」
少しずつ日本酒の知見を深めた関さんは、日本酒会に参加したり、自らイベント主催もするようになっていく。そうした中で、業界の人と知り合う機会が増え、販売店や酒蔵とのつながりもできた。
ちょうどそのころ、北海道の母が日本料理店を始めたことを機に日本酒の仕入れを手伝ったこともあり、さらに人脈が広がっていったという。
日本酒は私に「居場所」をくれた

そんな中、関さんの知識に目を付けた人から、日本酒に関する記事を執筆してほしいと頼まれ、会社員との二足のわらじで日本酒ライターとしてのキャリアがスタートする。
アメーバブログやInstagramを活用した情報発信も始め、約10年間にわたって定期的に投稿を続け、現在ではSNSフォロワー数が約1.6万人に。
関さん
「はじめは、自分が飲んでおいしかった銘柄を紹介するだけでした。そこから、日本酒好きの人たちから反響をもらえるようになって、少しずつ自分で“コミュニティ”を作りたいという思いが芽生えてきたんです。
私自身、家族と離れて暮らしている中で、お酒を通じて知り合った人たちの存在がとても大きくて。人と人とのつながりって、お酒が介在することで、老若男女の壁も越えることができるんじゃないかと思ったんです」
そして、日本酒バーや小料理屋でも働き始めた関さん。ついには会社を辞め、フリーライターとして独立を果たす。
まさに、自分の意思と行動力で好きなことを仕事にしていったように見えるが、関さん自身の見解は少し異なる。
関さん
「私、自分で『好きなことを仕事にしたい』と、前のめりに思ったことはないんです。その時々で、『必要とされること』をやっていたら、いつの間にか仕事になっていたという感覚で。
ただ、フリーライターとして独立するときは、生半可な気持ちではいけないと覚悟を決めましたね。
出版社や編集プロダクションで働いた経験もなかったので、ライティングの力を付けるために、講座や勉強会にも通ったんですよ。それに、酒蔵の取材をさせていただくときは、その歴史や変遷まで念入りに下調べをしていきました」
話を聞くだけで、熱量の高さや想いの強さに圧倒されてしまうが、関さんは何にでものめり込めるタイプというわけではなく、日本酒以外のことはまったく続いてこなかったという。
それは関さんの生い立ちが関係している。
関さん
「高校卒業直前に両親が離婚して、妹と一緒に母に引き取られました。
家計を支えるために、高校3年の1月には、すでに働きに出ていました。なんとか妹だけは大学に通わせたくて、母と一緒に働き詰めの生活をしていましたね。
母娘3人で支えあって暮らしていたし、決して辛いことばかりではなかったのですが、自分のために生きるという実感は持ててなかったような気がします」
そんな生活の中で唯一、「自分のためだけの時間」に思えたのが、夜に酒場で過ごすひとときだった。

関さん
「お酒が大好きなのはもちろん、その場でいろいろな人と出会って話をするのも楽しくて。
10代のころから働いていることに、どこか引け目を感じている自分もいたんですが、お酒を媒介にすると、どんな立場の人ともフラットに話すことができて、それがすごくうれしかったんです。
上京して、自分のために生きられるようになってからも、嫌なことはたくさんありましたが、日本酒の勉強をしている時間は楽しかったし、そこでつながった人たちとの縁も切れなかった。
私にとって日本酒は、人生の支えのような存在なんです。情報発信を始めたのも、自分に居場所をくれた日本酒に、少しでも恩返しをしたいという気持ちが強かったからだと思います」
「被災」がきっかけとなった転機
関さんの日本酒への強い想いを象徴するエピソードは他にもある。ライターやインフルエンサーとしての情報発信だけでは飽き足らず、酒蔵で蔵人として働き出してしまったことだ。
きっかけは、実家に帰省していたときに見舞われた「平成30年(2018年)北海道胆振東部地震」。
電気が止まり、ろうそくの灯りだけが頼りの部屋で、母と日本酒を飲みながら「自分が本当にやりたいことをやろう」と決意。
関さん
「当時から、ライターの仕事はいつかAIに取って代わられると言われていました。なので、自分にしかない“武器”を手に入れるために、いつか酒蔵で働いて、現場でしかわからない酒造りの“リアル”を体感したいと考えていたんです。
それに、取材に行った酒蔵の人たちが、かしこまらずに話をしてくれることも自分の強みだと思っていて。だからこそ、現場の方々と一緒に『水仕事は冷たく、朝早く辛い』ということも身を持って経験したかった。それが、被災したことで覚悟が決まって、“いつか”ではなく、“今すぐ”行動しようと思えたんです」
震災翌週、決意を胸に秘めながら取材に向かったのが兵庫県宍粟(しそう)市。
イベントに参加する前に、「播州一献」という銘柄を製造する「山陽盃酒造」の壺阪雄一専務(※当時。現在は社長)とお酒を酌み交わした席で、「今シーズン、どこかの酒蔵で働くことに決めました」と話すと、「うちで働けばええやん」と持ちかけられたのだ。

播州一献
関さん
「壺阪さんは、その場の勢いで言ってくれただけかもしれませんが、私はそれを真に受けてしまって(笑)。
東京に戻ってからよく考えてみても、取材でよく通っていた酒蔵の1つだったので、最適な選択肢ではないかと思いました。
そこで、正式に働きたい旨を伝えると、すぐに社内で確認を取ってくれました。ちょうど酒蔵は、11月、12月が忙しくて人手が足りないので、まずはアルバイトとしてお手伝いさせてもらうことになったんです」
いよいよ現地入りが間近に迫った2018年11月8日、予想だにしなかった事態が発生する。山陽盃酒造で火事が発生したのだ。
知り合いから一報を受け、ニュース映像を見た関さんは、その場で呆然としてしまったという。

山陽盃酒造の火災の様子
関さん
「すぐに駆け付けたい気持ちもありましたが、大変なときに邪魔になるのも嫌だし、色々な感情でぐちゃぐちゃになってしまったんです。
でもそれを母に電話で話すと、『大変なのはあなたじゃないでしょう!』と叱咤されました。
『とにかく連絡して、人手が必要なら、片付けだけでも手伝いにいきなさい。邪魔になるようだったら、すぐに帰ってきなさい』と言われて、ふっと気持ちが切り替わりましたね」
壺阪専務に電話をすると「来てもらえると助かる」。
翌日に現地に向かい、山陽盃酒造に到着。色々な物が燃え落ちる中で、関さんのために用意された長靴だけが、きれいに焼け残っていたという。
関さん
「私は、ここで働く運命なんだなと思いました。何か大きな存在に、『あなたができることをしなさい』と言われているような気がしましたね。
実際、壺阪さんたち経営者は、スタッフにも街の人たちにも迷惑をかけているから、謝罪するばかりで泣き言の1つも言えないんです。そんな気持ちの受け皿になれただけでも、“よそ者”である私の存在意義があったなと思います」
火災の被害にあったのは物置区域。ただ、明治から大正の時期に建てられた大切な蔵だった。
製造に直接影響が出ることはなかったものの、当時の山陽盃酒造はSNSアカウント持っておらず、情報発信をすることができなかった。そのため、SNS上ではネガティブな投稿が飛び交っていたそうだ。
関さん
「心配の声も多かったですが、火事のニュースを見ただけで『山陽盃酒造はもうダメだ』『播州一献は終わった』みたいに、ネガティブな投稿をする人もいたんです。
それが本当に悔しかったので、私のアカウントを使って、詳細な被害状況と、製造には問題がないことを発信し続けました」
すると、国内はもちろん世界中の取引先が関さんの投稿をチェックするように。正しい情報が伝わったことで、徐々にネガティブな声はなくなっていった。
“よそ者”だからできたこと

いきなりの大波乱から始まった酒蔵での仕事。
だからこそ気合を入れて臨んだ関さんだったが、最初は思うようにいかないことばかりだった。
関さん
「火事の混乱もあったし、目の前で職場が燃えていくのを見ていたわけだから、どうしてもピリピリした雰囲気になりますよね。
私がSNSに上げるために被害状況や蔵の様子を撮影していることをよくわかっていない人もいて、心無い言葉をかけられることもありました。ただでさえ慣れない環境だったので、隠れて泣いたときもありました。
でも“よそ者”としてやってきた以上、疎外感を覚えるのは仕方のないことです。『なんだか戦場カメラマンみたいだな』と思っていました」
一方で、“よそ者”という立場だからこそ、酒蔵に貢献できることもあったと話す。
関さん
「内部で当たり前になっているやり方やルールでも、外から見ると効率が悪かったりすることもあるじゃないですか。だからこそ、気付いたことはすぐに言うようにしていました。せっかく働かせてもらうなら、少しでも何か役に立ちたかったんです。
でも、言いたいことを言うぶん、人一倍働くようにはしていました。朝から晩まで酒造りをしながら、火事に関するお詫びの手紙を代筆したり、新商品のコンセプト作りやラベルのデザインをしたり。
心が折れそうになるときもありましたけど、ただ『播州一献』という、大好きな銘柄を傾けさせたくないという一心で踏ん張っていました」

そんな姿が、次第に酒蔵の人たちにも受け入れられていき、当初2、3ヶ月の予定は、最終的に5年半もの長期間にわたって勤め上げた。
関さん自身の日本酒への強い思い入れや、仕事にのめり込み努力する姿勢の賜物だろう。在籍期間中は、新商品の開発を手掛けることもあった。
関さん
「火事のあと、山陽盃酒造に対する応援の声がたくさん届くようになりました。とてもありがたいことでしたが、本来なら酒蔵は、周りに支えてもらう立場ではなくて、おいしいお酒で人々を幸せにすることが使命です。
だから(火事の)イメージを払拭するくらい明るいニュースを届けたくて、インパクトある新商品の開発を提案したんです」
検討するなかでたどり着いたのが、りんごを発酵させた醸造酒「シードル」。
実は、以前からシードルの可能性に注目したという関さん。しかし提案当初は壺阪専務の反対にあったという。
蔵見学に訪れた際、そのやりとりを見ていた知人が、山陽盃酒造への御歳暮としてシードルの飲み比べセットを贈ってくれたのだ。
その中には、甘さが少なく食事に合わせやすい種類のものもあり、これなら「播州一献」の哲学とも一致するのではないか壺阪専務も納得。開発と視察がスタートした。
まずは、地元農家に依頼して原料となるりんごを確保。蔵では醸造法を確立し、クラウドファンディングを立ち上げ……、そうして2年の歳月を経て完成したのが「CIDRE RonRon」だ。

関さん
「もう我が子のように可愛いお酒です。
同時に、メインブランド(播州一献)が、時代の流れに翻弄されずクラシカルな日本酒としてドシッと構え続けるためにも、『CIDRE RonRon』が、おしゃれにキラキラ輝いてくれるといいなと考えています。
そうすれば、『播州一献』の“いぶし銀”もさらに際立ちますからね」
もちろん、見た目のおしゃれさだけでなく、製造過程や味わいにも強いこだわりが。
関さん
「清酒酵母の『きょうかい9号』を使用しているので、『播州一献』のエッセンスも感じられるようになっています。
本格的な醸造酒ながらも低アルコールなので、より幅広い人たちに受け入れてもらえるんじゃないかと。
日本酒文化に触れるきっかけになってくれたらいいなと思っています」

山陽盃酒造の仲間や地元のミュージシャンの方々と。左から3番目が壺阪雄一専務、4番目が壺阪興一郎社長(※当時、現在は会長)
また開発にあたっては、「地元の若い世代が誇りに思えるものを作りたい」という考えもあったと話す。
関さん
「宍粟は、大学進学を機に都会に出てしまう人が多い町で、地元の若い世代が口々に『東京はええよな』『都会がうらやましい』なんてことを言うんです。でも私はこの町が大好きだし、都会にはない、いいところがたくさんあるのにと、悲しい気持ちになりました。
なのでもし、地元発祥のお酒が、世界中のおしゃれなシーンでも飲まれるようになったら、きっと誇らしい気持ちを抱いてくれるはずだと思ったんです。
それに、周りの人たちに『どんな場所からでも何かを発信することはできる』ということが、少しでも伝わったらいいなという思いもありました。火災のとき、地元の人たちが応援してくれたからこそ、山陽盃酒造としても、私個人としても、ここまで歩んでこられた。そしてそれは、宍粟という土地があってこそ。今でも宍粟は、私にとって第二の故郷のような場所です。そういった思いを、少しでも感じ取ってもらえたらうれしいですね」
日本酒業界で働く人たちの代弁者になりたい

2024年3月、約5年半勤めた山陽盃酒造を退職した関さんは現在、ライター業を主軸に活動している。
関さん
「私はやっぱり、取材することが大好きなんです。取材対象の方々に人生の時間をひととき分けてもらって、お話を聞けるなんて、本当に光栄な仕事です。子どものころから好奇心旺盛で、気になったことは聞かずにいられない性格なのもプラスに働いている気がします。
地方に住んでいる方々は、足元に無数に散らばる宝物を見つけにくいのではないかと思います。なかでも酒蔵の職人さんたちは、自分がどれだけ素晴らしいことをやっているか、当たり前すぎて気づかれていないことも多いんです。私が書く記事を通して、多くの人たちにその仕事の尊さを知ってもらえたらいいなと思います」

ロサンゼルスの酒蔵「Sawtelle Sake」の取材で
これまで、さまざまな実績を積んできた関さん。今後は、日本酒への「恩返し」として、どんなことに取り組んでいくのだろうか。
関さん
「まずは本を出したいです。日本酒をテーマに、歴史を絡めた蔵のルポルタージュや、趣味である城めぐりとセットにした旅の指南書を書きたいです。それから、海外にも目を向けていかなければと考えています。
40年後に国内の飲酒人口は半分になると言われています。先日は、アメリカ・ロサンゼルスの酒蔵を取材したとき、私が感じた実態や課題も含めて記事にしたら、『僕たちが心から思っていることを、しっかり書いてくれてありがとう。これまで書いてもらった記事の中で、僕たちの伝えたいことが1番つまっているよ』と連絡をいただいたんです。すごくうれしかったし、これが私のやるべきことだなと改めて感じました。
国内外問わず、日本酒業界に携わる人々の代弁者のような存在になっていけたらと思っています」
撮影協力:Firenze Sake
ライター:近藤世菜
東京在住のフリーライター。お米の味わいがいきた甘めの純米酒が好き。現在、日本酒の知識を日々勉強中。
X:@sena_kondo

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