【今さら聞けない教えて!?シリーズ22】硝子瓶~洗瓶、瓶詰め、そして打栓~
今回のテーマは文字通り、瓶を洗い、瓶に詰め、栓をする工程です。今回は、作業内容ではなく、瓶を主役にしてお話しいたします。
なんてことのない作業だと思われがちですが、酒造りに労苦はつきもの。洗瓶機や瓶詰め機の性能、打栓機の新旧によって作業の労苦が変わることは言うまでもありません。
有史以前の土器から始まり、陶器の甕、木製の桶や樽、徳利…… 世の趨勢を見極めながら、酒の容器は、素材を変え、形状を変え、容量を変え、商流の中心にいました。流通容器としてガラス瓶が普及したのは戦後ですから、一升瓶や四合瓶の歴史って浅かったんですね。
前回:【今さら聞けない教えて!?シリーズ21】分析と調合について
この方が解説します

- 杜氏屋主人・プロデューサー中野恵利さん
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プロフィール1995年、大阪・天神橋筋に日本酒バー「Janapese Refined Sake Bar 杜氏屋」を開店。日本酒評論家、セミナー講師、作詞家としてさまざまな分野で活躍。
●ギヤマンから硝子 ~輸入から国産へ!~
鏡や風鈴、眼鏡やかんざし、切子など、18世紀初頭から、日本でも硝子製品は多岐に渡って製造されていましたが、それはあくまで小さな日用品で、窓に使うような大きな硝子板は、そのほとんどをオランダから輸入していました。
1876(明治9)年、政府は、民営の硝子工場であった品川興行社を買い上げ、国営工場としました。この頃、需要が急増した板硝子や硝子瓶の国産化を図ったのです。
そして、1887(明治20)年には、展示会用や輸出用に限り、国産硝子瓶に詰めた日本酒が用いられるようになります。
国内で硝子瓶に詰めた日本酒が販売されたのは、1894(明治27)年の櫻正宗(兵庫県神戸市)が初めてとされており、瓶の容量は四合でした。その後、1899(明治32)年、江井ヶ嶋酒造(兵庫県明石市)が、口吹きによる硝子瓶に詰めた日本酒の販売を始めました。このとき初めて、瓶の容量が一升となるのです。江戸時代にはギヤマンと呼ばれ、貴重で高価だった硝子は、明治時代にはまだ大量生産の技術がなかったのです。
●脱 酒屋ブレンド~ブランドの確立~
それまで日本酒は量り売りで、客が持参する容器に詰めていました。通い桶や通い徳利は、酒屋が客に貸し出した容器で、江戸時代から昭和初期にかけて普及した通い徳利には、酒屋の屋号や酒名(昭和初期には電話番号も)が書かれ、広告の役割を果たすとともに、よその酒屋に行かせずに再来店させる目論見もあり、売上向上のアイテムでもありました。また、量り売りは酒屋が独自にブレンドすることが出来たため、それぞれの贔屓の獲得に繋がっていました。
一方で、量り売りは心無いブレンドの温床にもなりました。大量の水や安価なお酒を混ぜているにも関わらず、お代はしっかりいただく……なんてこともあったようです。禁酒法によって行き場を失くした機械がやって来たという説もある自動製瓶機は、日本に大量の硝子瓶をもたらしました。
灘や伏見の大手メーカーは、ブレンドによって “ 別のお酒 ” にされてしまうリスクと、近代化が進んだことで定着しつつあった衛生面への懸念などから、積極的に硝子瓶を導入しました。そうすることで、自社の香味とブランドを確固たるものに育てていったんですね。
とはいえ、昭和に入ってからも量り売りは健在でした。顧客を満足させる酒屋さんのブレンドのセンスも、なかなかのものだったと思われます。
●機械まかせにしていません
酒造りの現場にも機械はあります。でも、瓶を洗浄したらキズのチェック、酒を充填したら所定量入っているか、中に異物が入ってないかをチェック、打栓をしたら王冠に変形がないかチェック。機械にまかせず、人の目で確認しています。
前回:【今さら聞けない教えて!?シリーズ21】分析と調合について
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